工事中の建物の外壁の広告
昨年はイタリア研修でヴェネツィアに立ち寄りました。
今日の美しい都ヴェネツィアは世界中から人々が訪れる観光客名所。
しかし、今から1500年ほど昔、葦の生えているだけだった沼地に
移らざるをえなかった人たちにとっては、隣国の蛮族の侵略から逃れるためとはいえ
とくに彼らが高い文明をもっていただけに、非常な決意をようしたに違いないのでないか、
街を歩いていると、運河に流れる水は静かに、穏やかに街を包み込んでいる
しかし、歴史でみるヴェネツィア共和国は、それとは正反対に、
複雑で多様で、おそろしいくらいの動きに満ちていたのだと思います。
海の上にたつ、他のどこの都とも比較しようのない都の建国は、移り住んだ
人々の弛まぬ努力と知恵のみに由来するのか。
彼らにいったいどんな歴史があったのか、考えを巡らしながら歩き回るのに
車の往来が無いヴェネツィアは都合が良い。
翼をつけた獅子(サンマルコの獅子)
アドリア海への窓口、サンマルコ広場に訪れると翼をつけた獅子を至る所で
目にします。これはヨハネ黙示録に出てくる四つの動物の1つ。
福音書作者の四人の聖人にそれぞれ寓意の動物が決められていて、
この獅子は、サンマルコを寓意している。
そのサンマルコの遺骨が納められたのがサンマルコ寺院です。
聖人のヒエラルキーの一番うえは、キリストの弟子であり、十二使徒。
それに続いて、聖パウロと、福音書を書いた聖ルカと聖マルコ(サンマルコ)。
ここまでが守護聖人として一流ということになるのでしょう。
フィレンツェの守護聖人の洗礼者ヨハネもこのグループに属する。
ローマは当然ながら聖ペトロ。
ヴェネツィアは一流の聖者を守護聖人に持ったことになります。
誰が、どこから、どのようにサンマルコの聖遺体をヴェネツィアに
持ち込んだのか。持ち込めることにいたったのか。想像力をかき立てられますね。
鐘楼からアドリア海を望む
サンマルコ広場に高さ100メートルもある鐘楼があり、幾らか払えば
上までエレベーターで上がれます。
頂上からはヴェネツィアの街と目の前に広がるアドリア海を望むことができます。
ここから眺めているとサンマルコの聖遺体は多分、眼下に広がる、
このアドリア海の向こう側アフリカから持ち込まれたのではないか。
そう思えてきます。
ともあれヴェネツィア人はサンマルコを奉ることが許された。
これがキリスト教徒の世界でどれほどモチベーションになったか容易に想像できます。
この運命が、困難な国づくりに景気付けしたのに間違いないだろうと、、
人はどんなに優秀であっても、どんなに才能があっても
そうそう簡単には結果に結びつかないものではないでしょうか。
結果に至る間に”きっかけ”、”運”を必要とするのではないかと思います。
そのきっかけをヴェネツィアはしっかりと掴んだ。
聖(サン)マルコが安息するサンマルコ寺院
ときは他のヨーロッパ諸国の人々が、キリスト誕生一千年後に襲うと予言された、
黙示録の世界の終末に、恐れおののいて暮らす時代。
身の安全を求めるために最も不利な条件下で、生活することを余儀なくされてきた
ヴェネツィア人も非常な努力によってそれを克服し、危険が多いが
利益も多い海洋貿易へ海へ向かいます。
そしてアドリア海、地中海の貿易を席巻していく
緋色の地に金糸で刺繍された、獅子の国旗は至る所でひるがえったのでしょう。
国粋主義者でなくとも、日の丸が一番高い場所に上がると気持が高揚します。
海外の空港で鶴のマークをみると誇らしく思える。
ヴェネツィア人は獅子を背に、固い絆と誇りを持ち大海原を制していったのでしょう。
こんな想像をしているとロマンをかき立てられます。
石畳の道は他の都市と同じ
路地の途中に必ずある広場。教会があり、露店や大道芸に遭遇。
ヴェネツィアならではの光景、水上マーケット。普通のスーパーは駅のある陸地側にある。
ヴェネツィアの街は、複雑で網の目のように運河が通っていて
細い道が多く、曲がり曲がりしています。迷路のようで、地図を
頭に入れるのに時間が掛かるかもしれませんが
必ず運河か海のどちらかに抜け出られるように、抜け道があるので
袋小路というのがない。
なので何となく歩いていても何処かにたどり着く。
迷路のような町並みは、基盤の目のように整然とした都市計画を良しとする人の、
趣向には合わないかもしれないが、飽きることがない。
私たちが頭の中で、都市とはこうあるべきだと考えだされた都市計画にはない
有機的な人間的な良さを感じます。
梅浦
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